Story 01
“わたし”の実感が揺らぐ子ども時代
しっかりした長女で
優等生のわたし
若くして結婚した両親の元に、三人姉妹の長女として生まれた私は、小さな頃から、とにかく“しっかりしている”子どもでした。駄々をこねて親を困らせるようなこともなく、とにかく手のかからない子だったようです。
小学校では、毎年、学級委員をやるような優等生タイプ。両親にとっては、自慢の娘でもあったようです。
ただ、子ども時代を振り返ると、私自身は、いつもどこか苦しかった記憶があります。
両親は二人とも子煩悩で優しい人たちでしたが、職人気質で短気な父は、機嫌を損ねると大声で怒鳴り散らし、モノに当たることがありました。また、夫婦喧嘩も度々あって、時にはテレビドラマに出てくるような激しい喧嘩となることもありました。
喧嘩が激しくなると、同居していた祖父母に言われて、私が喧嘩を止めにいくことも多かったのですが、父に「生意気なことを言うな!」と八つ当たりされることもありました。それでも、二人の妹を守らなければ!私が止めなければ!と、喧嘩の度に、『しっかりした長女』として立ち向かっていきました。
そんな家庭環境の中で、「今日は、お父さんの機嫌はどうだろう?」「今日は喧嘩していないだろうか?」と、いつもセンサーを張り巡らして生活していました。
それが、いつしか『普通』になり、周りの空気を察し、相手が望んでいること、期待されていることに応えようとすることが私の当たり前になっていったように思います。
そして、いつの頃からか、時々私はある感覚に陥るようになりました。
自分だけがまるで膜の中にいて、人の声が、どこか遠くから聞こえてくるような感覚。まるで、自分が自分でないような気がしてくるのです。自分と現実の実感がなくなり、鏡で自分の顔を見ていると、とても奇妙な感覚に襲われて、鏡を見るのが怖くなることもありました。
自分ではなかなか抜け出せないこの感覚になると、いつ戻れるのか、不安になったのを覚えています。大人になってから、たまたま開いた本で、それが『離人症』と言われる症状だったと知りました。
こうして、表に見えている”しっかりした美有紀ちゃん”とは裏腹に、私は、心の深いところで揺らぎを抱えながら成長していきました。
そんな子ども時代、思春期を経て、進学のため一人暮らしを始めた時、誰かの機嫌や空気を察しなくても良いことに、すごくほっとしたのを覚えています。
とはいえ、私の中の『本来のわたし』が自立して生き始めるには、まだまだ長い時間が必要でした。
自分が自分でない
一人、膜の中にいる感覚
Key Message 01
自分のこころに向き合い
耳を澄ました時に
自分の本当の声が、聴こえてくる
今、私がコーチとして多くの人と関わりながら感じるのは、誰しも、子ども時代の影響が今に続いているということです。それは、もちろん良いものもあれば、生きにくさを感じさせる原因となっているものもあります。
私のように病的な症状が出てしまうかどうかは別として、周りの人の気持ちを察し、期待に応えるようにするあまり、自分で自分の気持ちがわからなくなってしまう人は少なくありません。
流されるように日常を過ごしているうちに、『本来のわたし』を見失ってしまうこともあります。
なんとなく続いてきた時間の中で、なんとなく生きているという人は案外、多いのかもしれません。
そして、何かのきっかけで、自分のこころに向き合い、耳を澄ました時に、自分の本当の声が聴こえてくるように思います。